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ネスター (駆逐艦) : ミニ英和和英辞書
ネスター (駆逐艦)[かん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
駆逐 : [くちく]
  1. (n,vs) extermination 2. expulsion 3. destruction 
駆逐艦 : [くちくかん]
 【名詞】 1. destroyer 
: [かん]
  1. (n,n-suf) warship 

ネスター (駆逐艦) : ウィキペディア日本語版
ネスター (駆逐艦)[かん]

ネスター (HMAS Nestor, G02) は、オーストラリア海軍駆逐艦N級駆逐艦の一艦。第二次世界大戦中の1941年2月に就役し、大西洋地中海インド洋で活動した。1942年6月、地中海で実行されたヴィガラス作戦中に空襲で損傷し、処分された。
==艦歴==
グラスゴーゴーバンフェアフィールド社で建造され〔HMS Nestor 〕。1939年7月26日起工〔''The Kelly's'', p.216〕。1940年7月9日進水〔、1941年2月3日就役〔。本国艦隊の第7駆逐群に所属した〔第二次大戦駆逐艦総覧、p.20〕。
1941年3月1日にスカパ・フローに着き〔''The Kelly's'', p.88〕、アイスランドに向かう船団の護衛などに従事した〔''The Kelly's'', p.89〕。4月10日から4月28日までクライドで改装工事が行われ、285型レーダーが搭載された〔。
5月5日にネスターは第6駆逐群に加わり〔''The Kelly's'', p.133〕、軽巡洋艦エディンバラマンチェスターバーミンガム、駆逐艦ベドウィンソマリエスキモーと共に北極海でドイツの気象観測船の捜索に当たった〔''Chronology of the War at Sea 1939-1945'', p.72〕。5月7日、駆逐艦ソマリによって気象観測船ミュンヘンが捕捉され、ネスターは捕虜となったミュンヘンの乗員を乗せて5月9日にスカパ・フローに戻った〔〔。
5月18日、ドイツ海軍の戦艦ビスマルクと重巡洋艦プリンツ・オイゲンによる、大西洋での通商破壊を目的としたライン演習作戦が開始された。5月22日、ネスターは本国艦隊の戦艦キング・ジョージ5世、空母ヴィクトリアスなどと共にスカパ・フローから出撃した〔''Chronology of the War at Sea 1939-1945'', p.74〕。5月24日、ビスマルク、プリンツ・オイゲンとイギリスの巡洋戦艦フッド、戦艦プリンス・オブ・ウェールズとの間でデンマーク海峡海戦が発生し、フッドが撃沈された。ネスターはビスマルクを追撃する艦隊に同行したが、5月25日に給油のためアイスランドへ向かい、以後の戦闘には参加しなかった〔。ビスマルクは5月27日にキング・ジョージ5世などに捕捉され撃沈された。
7月、ネスターは地中海サブスタンス作戦に参加した。これは7隻の船からなる船団を西からマルタへ送るというものであったが、1隻はジブラルタル沖で座礁し作戦参加が不可能となった。ネスターは7月19日にジブラルタルに到着した〔''Royal Australian Navy, 1939–1942'', p.397〕。7月22日、ネスターはイタリア潜水艦ディアスポロが発射した魚雷を発見、巡洋戦艦レナウンに警告を送ると共に爆雷攻撃を実施したが、結局潜水艦を見失った〔''The Kelly's'', p.134〕〔''Royal Australian Navy, 1939–1942'', p.398〕。7月23日には空襲を受け護衛艦艇に損害が発生した。さらに夜、パンテッレリーア島の北でイタリアの魚雷艇による襲撃があり、貨物船シドニー・スターが被雷し落伍した。それに気づいたネスターはシドニー・スターに近づき、487名を移乗させた〔〔''Royal Australian Navy, 1939–1942'', pp.398-399〕。それから、ネスターとシドニー・スター、そして救援に派遣された軽巡洋艦ハーマイオニーの3隻はマルタへ向かった。途中空襲を受けるが命中弾はなく、3隻は7月24日午後2時にマルタに到着した〔。7月27日、ネスターを含む艦隊はジブラルタルに帰投した〔。
ネスターが参加した次の作戦はスタイル作戦であった。これは、サブスタンス作戦時に座礁した兵員輸送船に乗っていた兵員など、これまでの作戦でマルタへたどり着けなかった者を巡洋艦などに載せて運ぶというものであった〔''The Royal Navy and the Miditerranean, Volume II:November 1940-December 1941'', p.152〕。それを援護するため、H部隊が7月30日にジブラルタルから出撃し〔、ネスターもそこに加わっていた〔''Somerville's Force H'', p.154〕。兵員輸送に当たったX部隊は8月2日に無事マルタに着き、8月4日にH部隊と共にジブラルタルに帰還した〔''The Royal Navy and the Miditerranean, Volume II:November 1940-December 1941'', p.153〕。
8月6日からはネスターはOG70船団を護衛し、8月12日にジブラルタルに戻った〔。続いてネスターはミンスミート作戦に参加した〔。この作戦では8月24日に空母アーク・ロイヤル搭載機がサルデーニャ島空襲を行った。
ネスターは次は中東へ向かう兵員輸送船団の護衛に従事した〔。9月11日、給油のために立ち寄っていたガンビアバサーストからの出航直後にネスターはアスディックで何かを探知し爆雷を投下したが、その爆雷の爆発でネスターにも被害が生じた〔''The Kelly's'', pp.134-135〕。現地での修理は不可能であったためデボンポートに向かい、10月1日から11月30日まで損傷の修理がおこなわれた〔''The Kelly's'', p.135〕。
修理完了後ネスターはWS14船団と共に出航し、途中で船団とは分かれてジブラルタルへ向かった〔。12月15日、ネスターはサン・ヴィセンテ岬南西で浮上航行中のドイツ潜水艦U127を発見した〔''Royal Australian Navy, 1939–1942'', p.407〕。ネスターは砲撃を行い、U127が潜航すると爆雷を投下した〔。また、同行していたほかの駆逐艦も爆雷攻撃をおこなった。U127は撃沈され、それはネスターの戦果とされている〔''Royal Australian Navy, 1939–1942'', p.408〕。
ネスターは12月16日にジブラルタルに着き、22日には軽巡洋艦ダイドーや4隻の駆逐艦と共にマルタへ向かった〔。それは、マルタからアレクサンドリアへ向かう船団を護衛するためであり、それはMF1作戦といった〔''The Royal Navy and the Miditerranean, Volume II:November 1940-December 1941'', p.232〕。12月24日にマルタに着いたネスターなどはC部隊として、B部隊と共に船団を護衛して12月26日にマルタを出発した〔。途中空襲があったが目立った被害はなく、船団は目的地に着いた〔。12月31日、ネスターはバルディア砲撃を行った〔''Chronology of the War at Sea 1939-1945'', p.130〕。
太平洋戦争勃発により、オーストラリア政府の要求にこたえてネスターなど3隻のオーストラリア駆逐艦が東洋艦隊へ移されることになった〔''The Kelly's'', p.136〕。3隻は1942年1月3日にアレクサンドリアを離れ、途中で空母インドミタブルと合流し1月14日にポートスーダンに着いた〔''Royal Australian Navy, 1939–1942'', p.525〕。インドミタブルはシンガポールへの戦闘機の輸送任務についていた(セモリナII作戦)〔''The Illustrious & Implacable Classes of Aircraft Carrier 1940-1969'', p.119〕。インドミタブルと3隻の駆逐艦は1月15日にポートスーダンを出港した〔。途中で戦闘機の送り先がバタビアに変更となり、1月27日と18日にインドミタブルは戦闘機を発進させ〔、2月2日にトリンコマリーに着いた〔''The Illustrious & Implacable Classes of Aircraft Carrier 1940-1969'', p.121〕。続いて、今度はポートスーダンからセイロン島へ戦闘機を輸送するインドミタブルを護衛した〔。ネスターはそれからはしばらくインド洋で過ごし、護衛任務などに従事した〔。5月のディエゴ・スアレス攻略作戦(アイアンクラッド作戦)の際は日本軍の来襲に備えて戦艦ラミリーズ、ウォースパイトなどと共にマダガスカル東方に展開した〔''British Invasion Fleets'', pp8-9,49〕。
1942年6月、マルタへの補給作戦であるヴィガラス作戦に参加するため、ネスターは再び地中海に戻った。6月11日に最初の船団がポートサイドから出発し、続いて2つ目の船団がハイファから、3つ目の船団がアレクサンドリアから出発した〔''Malta Convoys 1940-1943'', pp.351-352〕。ネスターはこの内ハイファから出発した船団の護衛であった〔''Malta Convoys 1940-1943'', p.351〕。3つの船団は6月13日に合流した〔''Malta Convoys 1940-1943'', p.353〕。枢軸国軍による空襲やSボートの襲撃で船団の船や護衛艦艇には被害が続出し、ネスターもそのうちの1隻となった。だが6月15日午後6時6分、トブルク北方でネスターの至近で爆弾が爆発し、ネスターも大きな損害を受けた。〔''Royal Australian Navy, 1942–1945'', pp.93-94〕。駆逐艦のジャヴェリンがネスターを曳航したが、ネスターの揺れがひどく曳航は2度中断された〔''The Kelly's'', p.152〕。アレクサンドリアまでの距離を考えると、これ以上曳航を続けた場合はジャヴェリンも失われる可能性があるためネスターの処分が決定され〔〔''Royal Australian Navy, 1942–1945'', pp.96〕、6月16日午前7時ごろジャヴェリンの爆雷でネスターは沈められた〔。ネスターの乗員の戦死者は、第1ボイラー室の浸水で死亡した4名であった〔〔''Royal Australian Navy, 1942–1945'', pp.94〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ネスター (駆逐艦)」の詳細全文を読む




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